山を守る活動が深めた、感謝と責任:長年の登山経験が導いた新たな一歩
長年の登山経験が教えてくれたこと
長く山に親しんでこられた方であれば、山からどれほど多くのものを受け取ってきたか、深く実感されていることでしょう。登山の技術や知識はもちろんのこと、心身の健康、困難を乗り越える強さ、自然への畏敬、そして何より、日々の生活では得難い心の平穏や豊かさ。山の稜線に立つたび、あるいは静かな森の中を歩くたび、私たちは言葉にならない大きな恵みを感じています。
山への恩返しという想い
そうした経験を重ねるうちに、ふと「山に何かお返しができないだろうか」という気持ちが芽生えることがあります。単に登って楽しむだけでなく、そこにある自然や登山道を、そしてこれから山を訪れる人々にとって良い状態に保つために、自分にもできることがあるのではないか、と考えるようになるのです。特に、年齢を重ね、体力や登り方に変化を感じるようになった頃、山の楽しみ方が多様化する中で、そうした想いはより具体的になってくるかもしれません。
私自身も、現役で精力的に山を登っていた頃にはあまり意識していなかった、「山を守る」という活動に関心を持つようになりました。きっかけは様々でしょう。地元の山岳会や自治体からの呼びかけかもしれませんし、あるいは荒れていく登山道を目の当たりにしたことからかもしれません。私の場合、ある時参加した地域の清掃活動でした。
清掃・整備活動で得られた新たな視点
実際に活動に参加してみて、単に「登る」という行為だけでは気づけなかった多くのことに気づかされました。登山道を覆う落ち葉や折れた枝を取り除く作業、朽ちかけた木段を修復する作業、あるいは登山道脇に捨てられたゴミを拾い集める作業。どれも地道で、決して楽な作業ではありませんでした。腰をかがめ、汗を流し、時には泥にまみれながらの作業です。
しかし、そうした活動を通じて見えてきたのは、これまでとは全く異なる山の姿でした。普段は何気なく歩いていた登山道が、どれほど多くの人の手によって守られているのか。自然の力強さと同時に、その繊細さ、手入れをしなければすぐに荒廃してしまう現実。そして、私たちが享受している山の恵みが、決して当たり前のものではないという事実です。
また、共に汗を流す仲間との繋がりも、登山で経験するそれとは少し趣が異なりました。頂を目指すという明確な目標がある登山とは違い、「山を守る」という共通の目的のために集まった人々。年齢も経験も様々ですが、「山が好きだ」という一点で結ばれています。作業の合間に交わす山の話や、共に働くことの連帯感は、また特別な喜びを与えてくれました。
与える喜びと責任の深化
こうした「山を守る」活動は、私に「与えることの喜び」を教えてくれました。誰かに感謝されるためでもなく、自分の記録のためでもなく、ただ山が、そして未来の登山者が、少しでも良い状態でいられるようにと願って行う行為です。その過程で、自己満足とは異なる、深く静かな充足感が生まれることに気づきました。
そして、「責任」という言葉の重みも感じました。私たちが今、美しい山に登れているのは、先人が道を拓き、守り続けてくれたからです。であれば、私たちもまた、この山を次の世代に受け継いでいく責任がある。そのために、できる範囲で力を尽くすことが、山から受けた恩恵に対する最も誠実な答えなのではないか、と考えるようになりました。
登山経験が導いた新たな人生の歩み
長年の登山経験は、私たちに様々な価値観や哲学を教えてくれます。自然との向き合い方、困難への対処法、自己との対話、そして、人生の有限さと豊かさ。そして今、「山を守る」活動は、その経験を基盤とした「新たな一歩」を示してくれたように感じています。
それは、単に消費する側から、自ら手を動かし、環境を維持・向上させる側へと視点を移すことです。それは、自分のためだけでなく、他者や未来のために行動することの価値を再認識することです。それは、山という大きな存在の一部として、持続可能な関わり方を模索することです。
山を守る活動は、体力的に現役の頃のようなハードな登山は難しくなったとしても、山との繋がりを持ち続ける素晴らしい方法です。そしてそれは、長年の登山経験を通じて培われた山への深い愛情と感謝が、自然と導いてくれる人生の次のステップなのかもしれません。山から受け取った恵みを、今度は山へ、そして未来へと還元していく。その循環の中にこそ、登山がもたらす真の成長と変容があるのではないでしょうか。