一歩先の自分へ - 登山

質素な山ごはんが教えてくれたこと:感謝の心と満たされる豊かさ

Tags: 山ごはん, 食, 感謝, 豊かさ, 価値観, 内省

日常の中の「食」と、山での特別な「食」

私たちの日常は、食料品店に並ぶ豊富な食材や、手軽に利用できる外食産業に囲まれています。いつでも、望むものを、望むだけ手に入れられる環境は、私たちの「食」に対する意識を、いつの間にか鈍感にさせているのかもしれません。当たり前のように目の前に現れる食事に対し、その恵みや、そこに関わる多くの人々の労力について、深く思いを馳せる機会は少ないように感じます。

一方で、山での食事は、その性質が全く異なります。パック一つ分のアルファ米、フリーズドライのカレー、あるいは乾燥野菜とわずかな調味料で作るスープなど、質素なものがほとんどです。重さを極力抑え、調理の手間も省けるものが選ばれます。しかし、この質素な食事が、日常では決して味わえない深い満足感と、多くの気づきをもたらしてくれることがあります。

疲労困憊の体に染み渡る一杯のスープ

忘れられない経験があります。標高の高い稜線を数日間歩き続け、冷たい風に晒され、体は疲労の極みに達していました。山小屋にたどり着き、他の登山客と共に囲んだ夕食は、決して豪華とは言えないものでした。温かい味噌汁、ご飯、そしてわずかなおかず。しかし、その一口一口が、体中に染み渡るような深い味わいを感じさせてくれたのです。

普段であれば何気なく口にする味噌汁も、その時は格別に美味しく感じられました。温かさが体の芯から冷えを取り去り、塩分が疲れた体に活力を与えてくれるようでした。それは、単に空腹を満たす行為ではなく、生きるために必要なエネルギーを補給しているという、根源的な感覚でした。

この経験を通じて、私は「美味しい」と感じる基準が、単に食材の質や調理法だけではないことを学びました。それは、自身の体の状態、置かれた環境、そしてその食事にたどり着くまでのプロセス、つまり「経験」が大きく影響するのだということです。

質素さの中に見出す真の豊かさ

山での食事は、日常の豊かさと比べると、物質的には遥かに貧しいと言えるでしょう。しかし、その質素さの中にこそ、真の豊かさが宿っていることに気づかされます。

例えば、苦労して運んだ食材を無駄なく使い切る工夫。水が貴重な場所であれば、食器を洗う水の量にも気を配ります。火を使うこと一つをとっても、燃料の限りを考え、効率よく調理しようとします。こうした一つ一つの行動が、普段当たり前にあるものが、実は多くの制約の上に成り立っていること、そしてそれがいかに恵まれた環境であるかを教えてくれます。

一杯の温かい飲み物を口にする時の安堵感、お湯を注ぐだけで出来上がるアルファ米のありがたさ、仲間と分け合うチョコレートの特別感。これらは、物質的に満たされている時には感じにくい、小さな、しかし確かな幸せです。山での食事は、こうした小さな幸せに気づき、感謝する心を取り戻させてくれます。

また、自然の中で食事をすることも、特別な経験です。鳥の声を聞きながら、あるいは風の音をBGMに、雄大な景色を眺めながら食べる食事は、五感を研ぎ澄ませ、自然との一体感を感じさせてくれます。それは、単に食べるという行為を超えた、豊かな時間であり、心を満たす経験です。

感謝の心が変える日常

山での質素な食事が教えてくれた感謝の心と、物質的ではない心の豊かさは、下山後の日常にも影響を与えています。

普段の食事に対しても、以前よりも感謝の気持ちを持って向き合うようになりました。食材が自分の手元に届くまでの過程に思いを馳せたり、食事を作ってくれた人への感謝を感じたり。また、食べ残しを減らす、丁寧に調理するといった、食を大切にする意識も高まりました。

そして、「足りている」という感覚。山での経験は、多くのものを持たなくとも、工夫次第で、あるいは心の持ち方次第で、十分に満たされることを教えてくれました。物質的な豊かさを追い求めることだけが幸せではないという価値観が、より一層強固になったように感じます。

山での質素な食事は、単に体力を回復させるための行為に留まりません。それは、普段の生活では見過ごしがちな多くのことに気づかせてくれる、深い学びの機会です。感謝の心、足るを知る心、そして物質的ではない心の豊かさ。登山がもたらすこうした内面的な変化は、私たちの人生を、より豊かで満たされたものにしてくれるのだと、改めて感じています。